ソフィアさんちのチルちゃんと僕(18)~蝶々夫人の魅力 ①~
オペラ『蝶々夫人』の魅力
1《 きれいに着飾った舞妓さんたちのかわいらしい舞姿!
昨年2013年7月21日(日)京都祇園甲部歌舞練場での舞の会(台湾から日本舞踊の萱老師も出演)を見学した時のこと。次から次へと舞を披露される出演者の艶やかさに、私は9年前(2004年11月14日)の関西合同三田会主催「日本文化のおもてなし」をテーマにした「京都市勧業館(みやこめっせ)」での舞妓さん達を思い出していた。》
2《 会場では武者小路千家(官休庵)家元のお呈茶席に、福澤先生直筆の掛け軸が・・・
そして、宴会場でのおもてなしは祇園の有名な御茶屋「一力」の芸・舞妓総出での接待で、大変感動したことを覚えている。
普通の日本人では絶対と言っていいほど触れることの出来ない特別な上方の伝統文化である。
芸妓さん達の舞の披露も終わり最後に舞妓さん達八人全員で舞っているときの事、そのかわいらしさに私は驚嘆してしまったのである。素人目にも技芸は芸妓さん達より相当劣っているし、容姿や美人という点でも・・・》
3《それらをカバーするためにかんざしや華麗な着物やだらりの帯があると思って見ていたのだが、見ている内にその全員のかわいらしさに我を忘れて唖然としてしまったのである。
近くで接待を受けて話していた時は、顔も着物もよく見えていたのに、かわいらしさは全く感じなかったのである。近くで見たその舞妓さんはどこにでもいる普通の女性なのであった。
しかし、舞っている舞妓さん達からはかわいらしさだけしか見えなかったのである。》
4《 マダム・バタフライ=蝶々さんはこんな芸妓さんだったのではないか、とその時思ったのである。
プッチーニの有名なオペラ『Madama Butterfly』の蝶々さんは15歳(オペラの設定は明治初期なので数え年であろうから、現代では13~4歳のあどけない少女であろう)
蝶々さんがモデルとされているらしいのは、山村ツル(明治33年49才で死去)という芸者である。
“明治初年長崎にいた山村ツルという芸妓があり、造船技師の英人グラバー氏と親しく、その紋所が揚羽蝶であったため外人の間ではマダム・バタフライと呼ばれていた。”
(長崎博物館主、平山国三郎氏の談:昭和24年10月9日東京の読売新聞に掲載)》
5《マダム・バタフライが舞台で舞っている、あどけなくかわいらしい舞妓さんのような女性かもしれないと思ったら、プッチーニのオペラ『Madama Butterfly』全てのストーリーとそれに付された旋律に対する解釈が変わってしまったのである。
ピンカートン 蝶々さん
「Quannt’anni avete?」(年はいくつ?) 「Indovinate」(あててみて」
「Dieci」(10才) 「Crescete」(もっと上よ)
「Venti」(20才) 「Calate. Quindici netti,netti;son vecchia diggia」
(もっと下、正確には15才;大人なのよ)
「Quindici anni! L’eta dei giuochi」 「e dei confetti」
(15才か! おもちゃ遊びの年だ) (お菓子の年よ)
オペラの第一幕、蝶々さんとアメリカ海軍士官ピンカートンの初対面での会話である。
私のイメージの中では、オペラの舞台でプリマドンナが演じる“蝶々さん”はいつもあどけない少女ではなかった。幼くかわいらしいはずの蝶々さんは、トスカやヴェルディのヴィオレッタ(『椿姫』)と同じように立派な大人の女性としてしか認識していなかったのである。》
6《 それまで、私は日本人だから蝶々さんのアリアや重唱の練習はやってきたが、どの場面も舞台で歌ったことはなかった。ドラマティックに書かれたプッチーニの楽譜をそのままドラマティックに歌っていたので、何かが違う自分の歌に納得ができなかったのであろうと思う。
プッチーニのオペラに登場する女性の感動的なアリアは・・・『Tosca(トスカ)』“Vissi d’arte”(歌に生き愛に生き)、『Turandot(トゥーランドット)』“Tu,che di gel”(リウのアリア:氷のような姫君の心も)、『Madama Butterfly(蝶々夫人)』“Un bel di”(ある晴れた日に)、“Tu? tu? tu?”(ああ、おまえかわいい坊や)・・・などのように主人公の感動のあらわな叫びで聴衆の心を深くゆさぶる曲が多い。
ヴェルディのオペラ『La Traviata(椿姫=迷える女〔直訳タイトル名〕)』“Amami Alfredo”(私を愛してアルフレード)も同じように主人公ヴィオレッタの心の叫びが単純で感動的な旋律となっている美しいパッセージである。
これらのアリアを私は皆同じようなドラマッティックリリコのアリアとして解釈していたのである。プッチーニのオケ(伴奏)はユニゾンで迫ってくるのが多いので歌い手も負けじと大きな声で頑張ってしまう。そこで歌われるのは理想を追い求め意思(愛)を貫く女性の悲劇性で、これでもかこれでもかと言わんばかりに聴衆の感情に訴えかけるのであるから、プリマドンナの独断場である。
あどけなくかわいらしい15歳の少女はどこにもいない・・・》
7《 今年の2月上旬頃、京都南座でオペラ『蝶々夫人』が上演され、祇園の芸妓5人が特別出演し、京舞井上流5世家元、井上八千代さんが振り付けを担当するそうである。
舞妓さんのかわいらしさは京舞井上流の振り付けによるものであるとしか考えられないが、その井上流とは、「おいど(お尻)を落として斜め上を見る」ということを重視すると言われている。
つまり、中腰で少し上を見上げるのである。蝶々さんにもそれを求めるのだろうか・・・
重い着物と鬘、舞でなら出来てもこの姿勢でのアリア歌唱はきつすぎる。
それに、かわいらしくても初歩の声の人にプッチーニの蝶々さんは歌えないし、完成度の高い声の人には、叙情的な部分やドラマティックな音楽表現は出来ても、かわいらしさの表現は極めて難しいはずである。(年齢だけでなく、声に威厳が現れてしまうからである)
それでもオペラ『蝶々夫人』は、当然のごとく完成度の高い声を絶対条件とするはずだし、蝶々さんのかわいらしさも又絶対条件でなければならない筈である。》
8《オペラ『蝶々夫人』の初演は1904年2月17日ミラノのスカラ座である。これは大失敗で野次や聴衆の叱声が激しく音楽が聞こえないくらいであったという。
その後、プッチーニと親しかった名指揮者トスカニーニの助言で、プッチーニは改定を加え(第2幕を2つに分けて間奏曲を入れ、ピンカートンの独唱を第2幕に加え〔“Addio fiorito asil”(さらば愛の家)〕聴衆の興味を増すようにして、同年5月26日ブレッシア歌劇場で上演した。これは大成功をおさめ以後、ピンカートンにカルーソー、蝶々さんに三浦環、ティバルディ、カラス、シュワルツコップなど多くの有名歌手を配し各地で大成功を果たした。
それまで私が見知っていたのは、そのような立派なオペラ歌手の奇妙な蝶々さん達であった。
幼くして芸者となった蝶々さんの可憐さをオペラの中でも感じてみたいものである。 》